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好きなものが詰まったお菓子箱

映画と私の大学4年間

こんにちは。海苔・ブリジャートンです。

4月から社会人になります。大学生活本当に一瞬だったな。

人生の節目ということで、映画と自分の関係性について書こう。以下、ただの自分語り。

 

大学入学時は何かしらのクリエイターになりたかった。映画サークルに入って、たくさん自分の作品撮って、コンテストに入賞し将来はハリウッドで活躍する。壮大な野望を持って大学の門をくぐったのである。自分には人とは違うクリエイティブな才能があると心の底から信じていたのだ。同じ学部の安定志向の人々とは違い自分で道を切り拓くーそんな気持ちで私は黒色のフレッシュマンスーツを拒み、真っ赤な髪の毛で大学の入学式を迎えた。

もちろん、私が選んだのは映画製作サークルだった。新歓では独特の雰囲気をした、率直な表現をすると映画のために単位を落としていそうな部員が集まっていた。ここが私の居場所になるに違いない、話の合う友人もたくさんできるだろう。文学部の先輩が映画の仕組みや技法を教えてくれて、私の期待値はK2よりも高まったのである。

数ヶ月後、1回生が主体となった撮影が始まった。私の担当は美術だ。期待とは反対に撮影は私にとって苦痛だった。まだ寒い春先、足先を震わせながら深夜に撮影をしたり、予定より長引く会議や撮影にうんざりしたのだ。同時に怖くなった。私が監督をして、グダグダと撮影をして完成しなかったらどうしようと。もし自分に才能がなかったらどうしようと。当初温めていたネタは日記帳の間に挟まったままで、もう二度と日の目をみることはなかった。

極め付けは、私は映画サークルで友人ができなかったのだ。映画や音楽の話で盛り上がるものの、それ以上深い話を先輩とも同期ともすることはなかった。自分の面白さがそのサークルでは100%出しきれなかったのだ。そうこうしているうちに同期は先輩と飲みに行ったり、作品をたくさん撮っていた。夏になってもまだ、私へのイメージは「洋画が好きな人」だった。

よく考えてみれば私は洋画しか興味がない。岩井俊二小津安二郎にも関心がなかった。私は映画の何が好きなのだろう。リビドーのような、映像に対する狂気も存在しなかった。そうして私はひっそりと映画サークルを辞めた。

 

月日は経ち、3回生。私はアメリカに留学した。実はこの時まで自分のクリエイティビティを信じていた。ハリウッド映画は大好きだし、映画に関われる機会はたくさんあるだろうと心を踊らせていた。自分は「ラ・ラ・ランド」のミアのような夢追い人の表現者だと言い聞かせていた。

なんとか映画撮影をしている大学生グループに接触し、撮影に参加することになった。しかし、私は1回生の過ちを繰り返しただけだった。夜中まで続く撮影、同じカットを繰り返す時間が苦痛だった。作品がなんとか完成した(らしい)が、私はまたフェードアウトしたのである。アメリカを舞台に移しても尚、映画製作に熱中することはなかった。そうして私は自分のクリエイティビティに見切りをつけた。映像で表現したい何かがある訳でもない。私がなりたいものは表現者ではないと留学中に気付いたのだ。

 

映画には様々な愛し方がある。表現に興味を持つ者もいれば、キャラクターに自己を投影して楽しむ者もいる。前者は映像を使って上手く自分の想いを昇華できるタイプだろう。

私にとって映画は違う文化を覗く窓だ。高校の時に憧れたプロム、シットコムから学んだ英語表現、ファッション、そして社会問題。こことは違うどこかに行きたいという渇望を、映画は満たしてくれた。結局、私が最初から望んでいたことは「海外進出」だった。海外で生き残る=クリエイティブ職と決めつけていたのだ。

会社に就職する自分を見て、1回生の私は鼻で笑うだろう。英語でのやりとりが多い会社だと知っても尚嘲笑できるだろうか。どんな回り道をしてもいいからいつかは日本を出たい。この気持ちは「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を初めて観た中学生の頃から決して変わっていないのだ。